イエスは御顔をエルサレムに向けておられたとあります。人々の期待はイエスがこの地上の王になってくれることを願っていたのです。しかし、それに反してイエスの思いはエルサレムにあったのです。弟子は人々がイエスを受け入れないのを見て腹を立て「天から火を呼び彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったのです。イエスは人々を救うために来られたのです。決して滅ぼすためではなかったのです。
弟子たちの横暴さも見え隠れしています。まるで自分たちの力によって人を裁いたりする傲慢さです。私たちも気を付けなければならないのは神の思いは決して人を裁くためではないということです。私たちは人を助けたり、救うための権威をいただいているのです。
ここにキリストの弟子でありながらヨハネの短気さが現されています。
ルカ9:55
しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。
1ヨハネ3:1
私たちが神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私たちは神の子どもです。―御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
短気なヨハネがここでは愛の人に変えられているのです。振り返ってみれば私も短気なところがありました。しかし今はキリストにあって、ずいぶん気が長くなったような気がします。
不思議です。キリストは人の心を変えてくださるのです。
1ヨハネ3:2
愛する者たち.私たちは,今すでに神の子どもです。後の状態は まだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。
人はだれでも癖があり完全な人はいません。
しかしキリストが現れたなら私たちはキリストに似た者になる。何と慰められる言葉でしょう。
1ヨハネ3:18
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。
ここで言う「子どもたち」とは小さい子供というより自分の弟子、キリストの弟子に対して言っている言葉です。
ヨハネもヤコブと同じく愛について説法しています。短気なヨハネがここでは愛の人に変えられているのです。もう一度言います。愛とは口先だけのものではなく実践が伴います。
1ヨハネ3:21
愛する者たち、もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。
「もし自分の心に責めがなければ大胆に神の前に出られます」と教えています。神を敬うことと隣人を愛すること、この二つが大切だということです。
聖日礼拝は神がせよと命じておられることであり、また、神が喜ばれることなのです。
キリストは神の愛を、身をもって実践された方でもありました。
主の祝福が一同の上にありますように。