1, キリストが私たちのために十字架にかかられたという言葉は、信仰のない人には、ばかばかしく思えます。しかしキリスト信仰のある人にとっては、神の力というのです。
2, 私たちはキリスト信仰によってのみ救われるのです。「ほかの方法では救われません」というのが聖書の教えです。
3, イエス・キリストは自分を「神の子」と言われたために十字架刑にされました。
神を冒涜した罪というのです。
4, しかしキリストは神の子であり、神ご自身であったのです。
5, キリストの十字架は、私たちの罪の身代わりを受けてくださったのです。
6, キリストは十字架刑を受けられたのち三日目に復活されたというのです。
7, ですから私たちもキリストにあって死後において復活の恵みに預かるというのが聖書の教えです。

マタイ16:24、25
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために命を失う者は、それを見出すのです。・・・・」

1,イエス・キリストは私たちのために十字架にかかり、命を捨ててくださいました。ですから私たちもキリストに倣って「十字架を担ってついて来なさい」というのです。

2,十字架というのは苦しみです。問題や困難があると、すぐキリストから離れていく人は本当の信仰者ではありません。

3,この世の欲で教会を離れていく人も本当の信仰者ではありません。本当の信仰者はキリストと共に十字架を負う人です。

ガラテヤ2:20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

パウロは「私はキリストとともに十字架につけられた」と言っています。すごい信仰者です。
私たちも少しの困難で挫折することなく、パウロを見習いたいものです。

ガラテヤ6:14
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

1, 私たちは何を誇りましょうか。誇る者は主にあって誇れということでしょうか。
2, パウロは「十字架以外のものを誇るな」と言います。
3, パウロは知恵の人でありまた学者です。その彼がキリストに出会ってから、変えられたのです。
4, 私たちも今も生きておられるキリストに出会う必要があります。
5, キリストはパウロのように私たちをも変えてくださいます。

ピリピ2:6―8
キリストは,神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質を持って現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。


主の祝福が一同の上にありますように。