達は生きている限り、いろいろ心配事があります。だれかが病気をすれは心配をし、またお金の心配もする人もいるでしょう。また死後の心配もすることでしょう。

心配とは心を配ると書きます。イエスは心を騒がせるなと言われます。「神を信じ、またわたしを信じなさい」と、私も心配があります。
教会の会堂費のことです。支払いできなくなったらどうしよう。しかし心配したからと言って問題がなくなる訳がありません。主に任せることにしました。そうすると心が安らかです。

死後の先のことも主に任せていくのです。
そうすると心に平安が来ます。自分で重荷を負おうとするからしんどいのです。
主にゆだねて行くのです。

ヨハネ14:27
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

この平安は信仰によって与えられる神の平安です。だから心配しないで受け止めていくのです。

マタイ6:25
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配してはいけません。
いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。


命は食べ物より,着るものより大切なのはよくわかります。しかし食べ物があって命が保たれているのです。着る物があって生活が保たれているのです。ですから食べ物も、着る物も両方が必要なのです。イエスは食べる物、着る物はいらないと言われたのではないのです。着る物、食べ物にだけに心を捕らわれるな、と言われたのです。

マタイ6:26
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養ってくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

空の鳥でも、じっとしているわけではありません。子育てのために働いています。
ですからじっとして神が与えてくださるのではないのです。ですから私たちも仕事をするのです。

マタイ6:27
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

イエスに信仰があったら心配はやめましょう。心配はイエスにゆだねて行くのです。
自分のやるべきことをして、あとはゆだねて行くのです。これが信仰者の姿勢です。

マタイ6:33
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

信仰者は神の国と神の義をもとめる必要があります。神への賛美と祈りと、礼拝を守りましょう。