光とは一、暗闇があっての光です。暗闇があるので光が必要なのです。明るいところに光は、いりません。
二、善と悪です。悪があるので善が 必要なのです。
三、キリストご自身です。「わたしは世の光です」と言われたのです。この光は人の心を照らすまことの光でもありました。
四、福音の光です。すなわちイエスを信じれば救われるという良い知らせです。
ヨハネ12:46
わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないためです。
この光は天国であり、暗闇は地獄です。キリストは誰も地獄に行くことを望まず、天国への道を開いてくださいました。これが良い知らせ、すなわち神の福音です。
詩篇27:1
主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよぅ。主は、私のいのちのとりで。
だれを私はこわがろう。
この詩篇の作者は,「主は私の光」と言っています。創造者に関心のある人です。
信じている人です.いつも祈っている人です。だからいつも神の平安があるのです。
悪とはいつも主に祈らない人です。関心のない人です。ですからいつも主と交わるのです。主が私達とともにおられるなら怖い者はありませんと言うのです。
詩篇27:4
私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
私たちには多くの願いがあるでしょう。この詩篇の作者は一つだけ求めていると言いました。「命のある限り主の宮に住むこと」と言っています。主の宮とはキリスト教会のことです。皆さんは教会を愛していますか。その教会で主を仰ぎ見ることを喜びとするというのです。
詩篇36:9
いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。
この泉は神が与えてくださるいのちの泉であり喜びの泉です。また聖霊による泉でもあるのです。人生の生きがいは主と共に歩むところにあるのです。
詩篇32:1
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が咎をお認めにならない人。心に欺きのないその人は。
罪とは我らの主から離れる人のことです.すなわち,主に関心のない人のことを言います。祈りもしない、教会にも来ない、献金もしない。名ばかりのクリスチャン。
そのことを聖書では罪と言います。われらの主に心を向ける時、主に従う時、我らのそむきの罪は許されるのです。今からでも遅くはありません。主は待っておられるのです。
詩篇32:3
私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
この作者は「主に黙っていた時は、疲れ果てました。」と言っているのです。主への賛美は開放です。主への祈りは喜びだというのです。皆さんいかがですか。
主の祝福が一同の上にありますように