ここに出てくる二人の息子ですが、兄は父に仕えるまじめな性格なのに対して、弟の方は自由奔放な生活をしたかったのでしょう。『父に縛られるのが嫌だ。もっとわがままな人生を送りたい』と。弟は家を飛び出しました。同じ事が信仰生活にも繋がるかもしれません。教会生活においても、『礼拝、礼拝とうるさい。もっとわがままな信仰生活を送りたい』と思っている人は、ちょうどこの弟息子のようです。

財産の分け前とは、本来、父が死んでから貰うものですが、この弟息子は父が生きている時から財産の分け前をせびります。父はそれをゆるしたのです。
立派な父親です。私たちの神様も立派な方で私たちのことを気にかけてくださっているのです。

ルカ15:13
それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。

弟息子は、お金を持って父の家を飛び出します。彼は急に得た財産で気が大きくなって湯水のように使ってしまったのでしょう。財産のある間は「旦那、社長」とか言って多くの友もいましたが、お金が無くなると人は離れていきます。人間とはそういうものです。
しかし、イエス・キリストはいつもあなたのそばにいてくださいます。
これが神の愛であり、神の恵みなのです。

ルカ15:15、16
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。

その国では豚は汚れた動物でした。その家畜のえさでも食べたいほど食べ物に困っていたのでしょう。「鈍すれば窮する」この息子は貧しさの体験をするのです。

ルカ15:17、18
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」

人は我に返ることが必要です。人は我に返る時、神の救いが来るのです。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」これは弟息子の悔い改めです。

ルカ15:19
「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。


父親は彼が帰ってくるのを待ち望んでいたのでしょう。父親の方から走り寄って彼を抱きしめました。これが父親の愛です。神も私たちが心を入れ変えて父のもとに帰る時、父は私たちを抱きしめてくださるのです。これが父の愛です。またキリストの愛なのです。教会もあなたの帰りを持っています。
一同の上に神の祝福がありますように