この世界には金持もおれば貧乏人もいます。日本は福祉が行き届いているのでもらい乞食はいません。それでも時たま「お恵みを」と言って教会に来る人もいるのです。
ここに出てくる貧乏人は、気の毒です。貧しいだけでなく病人です。家族もいません。
一人ぼっちです。だれも彼を助けようとする人もいないのです。犬も来ては彼のできものをなめていたのです。
ルカ16:22
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持も死んで葬られた。
どんなに金持ちであっても貧乏人であっても、生のあるものは死ぬ運命があります。
人の寿命は人が決めることはできません。同じ一生なら、楽をして金がある人が幸いだと思われるのですが、死後の世界を見ると違ってきます。
ルカ16:23,
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
金持の行ったところはハデスすなわち地獄です。貧乏人が行ったところは、アブラハムのところ、すなわち天国です。この貧しい人はキリストへの信仰があったのでしょう。聖書は言います。キリスト信仰によってその人の運命が決まると。
ルカ16:24
彼は叫んで言った。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」
この叫びは不信仰だった金持ちの叫びです。
一方、この世では不幸せに見えた貧乏人は、あの世では神からの慰めを受けました。
ルカ16:25、26
アブラハムは言った。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、よい物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとお前たちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えてくることもできないのです。」
神の救いを受けるのはこの世だけです。あの世では天国と地獄の行き来はないのです。
ですから今イエスを信じていく必要があります。皆さんは教会を愛していますか。愛しているなら教会に行きましょう。そして十一献金(マラキ3:8~10)もしておきましょう。
それが主の御心であり祝福なのです。
ルカ16:27
彼は言った。「父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」しかし、アブラハムは言った。「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」
いくら聖書の言葉を聞いていても、行いがない信仰は死んでいるのです。
(参照:ヤコブ2の17)
お言葉を実行する人になりましょう。