父という字は「くわ」を担いだ農夫の姿を現し、夫の姿です。ちなみに母という字は乳房を表す字で子育てを表します。これが夫の務めであり、また妻の務めでしょうか。
また父とは村長をあらわし、村長は「われらの父」だと言った場合。村長は面倒見が良い、村のために尽くしている、よく相談相手である、というものです。
また教会の牧師を我らの父と呼ばれるなら、牧師はよく祈るし、何でも相談に乗ってくれる。そういう人のことです。カトリックでは牧師を神父さんと呼ばれています。また家庭において父とは妻子を養っている、妻子を愛している。妻子から尊敬されている。社会においてもよく責任を果たしている人のことです。
アブラハムは信仰の父と呼ばれました。それほどアブラハムは信仰に立っていたのでしょう。家庭において信仰の母、信仰の父と呼ばれたら最高です。マザー・テレサのお母さんはよく祈る、祈りの人であったようです。
家庭においても良い父とは、家族を愛する父、家族から信頼される父、希望を与え、励ます父ではないでしょうか。
ガラテヤ3:6
アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。
信仰とは何でも信じればよいというわけではありません.神の子であるイエス-キリストを信じることです。この方こそ神であり人の罪を赦してくださる方なのです。信仰の父とはイエス・キリストを信じる人のことです。
ローマ4:13
というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
神の相続人は信仰によるというのです。この相続というのはパラダイス、すなわち天国の相続人のことです。日本人はいろんな信仰を持っているでしょう。実に800万の神々の信仰があるからです。しかし聖書でいう信仰とはただ一つ、天地創造者の神への信仰のことです。
ガラテヤ4:22、23
そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。
私たちは肉によって生まれた者ですが、キリストにあって約束の子なのです。それはキリスト信仰によって、約束の子なのです。
ガラテヤ4:24
このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。
シナイ山とは異教の神のあったところであり、エルサレムとは聖書の神,神殿のあるところです。
ガラテヤ4:26
しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
この母とは、イエス・キリストのことです。
すなわちイエス・キリストによって生まれた者は本当に自由の子であり、神の子であり、永遠の命なのです。
一同の上に主の祝福がありますように。