ペテロとヨハネはイエスの復活を力強く宣べ伝えていました。しかし、特にサドカイ人はイエスの復活を信じない人たちでしたので、彼らの話に困惑したのでしょう。私たちは イエスの復活を信じています。
使徒4:3
彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。
世の中にはイエスの復活を信じる人とそうでない人もいます。しかし御言葉を聞いた人は男だけで五千人、女、子供を含めると一万五千人信じたことになるのです。福音の言葉には力があるのです。
使徒4:10
皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から よみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
キリストの御名によっての祈りはあきらめずに祈ることです。継続されなければなりません。神の御業は継続された熱心な祈りの中で働かれるのです。
使徒4:11
『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。
石とはイエス・キリストのことであり、捨てられた石とはキリストの十字架のことです。いしずえとは信仰の土台です。
使徒4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
この救いはキリストの名においてのみで、ほかの人に救いの約束は与えられていません。
使徒4:13
彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
ペテロもヨハネも神学校は出ておりません。
なのに、この福音を宣べ伝える大胆さはどこから来たかというと、彼らの大胆さはイエス・キリストと共にいたというのです。私たちも信仰の熱心さ大胆さはいつもイエス・キリストと共にいることなのです。祈りの中で、賛美の中で御言葉の中においてです。
使徒4:18、19
そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えてはならない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。・・・・」
ペテロとヨハネを通してあまりにも多くの人が救われるのを見た役人や宗教家たちは恐れを感じて「イエスの名によって語ってはならない」と厳しく彼らに命じます。しかし彼らも負けてはおりません。「神に聞き従うのとあなた方に聞き従うのとどちらが正しいか判断してください」と言いました。私たちも聖霊満たされて、彼らのように なりたいものです。