復活についてパウロは言います。復活とは再び生きるという意味です。良い人も悪い人もです。すべて私たちは神の前に出るのです。死んで終わりではありません。
神の前に、さばきがあるのです。この悪い人とは神に背を向ける人のことです。
良い人とはキリスト信仰を持っている人です。皆さんキリスト信仰を持っていますか。

ルカ20:35,36
次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。

あの世ではもう結婚はありません。男も女もなくすべて御使いのようです。
私も天国を見せてもらいました。そこには、白いベールをかぶった人たちがある方向に向かって礼拝していました。そこには外国人も日本人という区別はありません.特に太い人も、やせた人もいません。みんな同じ体格みんな同じ背丈でした。ですからキリストにある人は悩まなくて良いのです。みんな天使です。

ローマ書:6:5-8
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪の体が滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

ローマ5:9-11
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

私の実家に畑があり、その中に渋柿が数本ありました。父はその中の一本を背丈ほどから切り倒し、甘柿の木を買ってきて接ぎ木をしました。数年すると根は渋柿なのにおいしい甘柿の実をつけました。

私たちも同じことが言えます。罪人なのにキリストに接ぎ木されると神に喜ばれる実をつけることができるのです。

ガラテヤ5:22,23
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

以上のような9個の実をつけるのです。

私の父はよく畑を耕していました。ある時ジャガイモを四つ切にして灰をまぶせました。良く耕された畑に種芋を植え付け、土をかぶせていきます。すると、あら不思議、種芋から芽を出し、やがて大きなジャガイモが採れました。

同じことが私たちにも言えます。キリストにあって信仰の芽があるなら、また芽を出すということです。この信仰の芽はすたれることがありません。