「キリストが私たちのために十字架にかかって身代わりに死んでくださったという言葉は滅んでしまう人々には愚かに見えるかもしれないが」と訳すことが出来ます。しかしイエスを信じて救われた者にとっては「十字架は神の力です」というのです。あなたが救われているか救われていないかは、キリストの十字架によるのです。
ガラテヤ2:20
私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
心の中に自分自身が生きているとなかなかキリストを認めようはしません。
自分中心ですから。しかしキリストにある人はキリストを中心として生きていくのです。
1ペテロ2:24
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
キリストはあえて十字架にかかって行かれたのです。きよい潔白な人ですから、十字架から逃れることもできたでしょう。然し人類の罪を一身にキリストがお受けになったのです。また「キリストの打ち傷で私たちは癒されたとあります。」
主は、癒す主です。
マタイ27:32
そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。
シモンは『騒々しいので何事か』と見に行ったらキリストの十字架を無理に背負わされたというのです。私たちも信じたらキリストの十字架を背負うという勤めがあるのです。
ヘブル6:6
しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
未信者ならともかく信仰を持ったものが堕落してしまうならば,どうしようもないというのです。悔い改めて主に立ち返りましょう。
主は赦してくださいます。
マタイ28:5-6
すると,御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」
この箇所は女たちが、イエスが納められた墓に朝早く見に行ったのです。すると御使いが言ったのです。「あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。」
墓にはイエスの姿はありませんでした。私たちも墓に探す必要はありません。
復活されたキリストが教会におられるのです。
また先祖たちを墓に閉じ込めてはいけません。キリストによって復活の命を頂けるように福音は伝えなければなりません。
私たちも死んだら墓に行くのではありません。天の父の身元に帰るのです。皆さんその備えはできていますか。