私の実家の隣に、今は妹が住んでいますが大きな楠の木がありましたが、あまり大きくなりすぎて屋根を痛めるというので妹は根元から切り取ってもらいました。しかし楠には根があったので、また新芽を出しています。「私たちも信仰の根があるなら、たとえ倒されてもまた新芽は出る」と教えています。
ヨブ27:8
神を敬わない者の望みはどうなるであろうか。神が彼を断ち切り、そのいのちを取り去る時は。
人の命はわかりません。いつ死ぬかは誰もわかりません。死んでからでは遅いのです。
生きている間にしっかりイエス様に信仰を持っておきたいものです。イエスは言われるのです.「わたしは,よみがえりです。命です。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
詩篇39:7
主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。
私たちが、神の子であるなら神を待ち望みましょう。
ヨブ27:8
神を敬わない者の望みはどうなるであろうか。神が彼を断ち切り、そのいのちを取り去られるときは。
死後のことは誰もわかりません。
しかしイエスにあるなら命と平安です。
詩篇62:5
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
問題があっても、気にしない。焦らず騒がず、ただ神を待ち望みましょう。
「私の望みは神からくる。」と詩篇の作者は言っています。
箴言10::24
悪者の恐れていることはその身にふりかかり、正しい者の望みはかなえられる。
これは神の約束です。信頼しましょう。
詩篇119:116
みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください。私の望みのことで私をはずかしめないようにしてください。
これは作者の祈りであり、私たちの祈りです。
使徒2:25b,26
『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安ろう。』
皆さんはいつも何を見ていますか。優雅なこと,金持ちになることばかり見ていませんか。上記の言葉はダビデの言葉です。ダビデはいつも主を見ていたとあります。私たちも主を見上げていきましょう。
ダビデは「心が動かされないため」と言っています。ダビデはイスラエルの王ですから何でも出来たでしょう。しかし「自分のことばかりで主を忘れないために」と言っているのです。私たちも日々の生活の中に追われ主を忘れることのないようにしたいものです。
ダビデは、「主は私の右におられる」と言っています。これは、ちょうど子供の手を引く親子のような感じです。私たちも主が共におられるので、毎日ルンルン気分で信仰生活を送りたいものです。