人をいじめるのは良くありませんが、いつもいじめられている子もいるのです。
いじめられている子の特徴は人を恐れているからです。ですから聖書は言うのです。
「人を恐れるな」。

箴言19:23
主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。

ここでの恐れは神を敬うことです。私たちの神が味方なら何も怖いものはありません。

イザヤ29:13

そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。」

これは形だけの信仰で本当に主を敬っていないことを示します。また、家庭の主人も愛しているなら恐れは、ないはずです。

イザヤ12:2

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

創世記15:1

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。

「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」


私の洗礼名は「アブラハム」です.なぜか,このことばが私に言われているように思いました。「心配するな、恐れるな、神が私とともについていてくださっている。」それゆえに「心配するな」と。この世に生きているといろんな心配もあるものです。しかし、私はこのことばで勇気をもらいました。

出エジプト1:12

しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。

イスラエル人とは神の民です。その人たちがエジプト人(この世の人)にいじめられていたのです。私たちも主のしもべです。他の人は異邦人です。他の人を恐れてはいけないのです。むしろイスラエル人のように堅く立ち、あらゆる面で強くならないといけないのです。

私たち主のしもべは、人を恐れたり、弱くなっていてはいけないのです。主にあって強く生きたいものです。

レビ記19:30

あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。

安息日とは昔は土曜安息でしたが今の時代は日曜日のことです。「六日間は仕事をしなさい。ただし日曜日は神様が、その日をわたしの日として守りなさい」というのです。

どうしても日曜日に出られない人は他の曜日に教会に来る必要があります。
わたしの聖所とは、キリスト教会のことです。あなたは主の愛する教会を愛していますか。

詩篇33:8

全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。

「主を恐れよ。」とは神を敬うことです。神様はみんなが主の前に出ることを待っておられるのです。自分の好きな歌を歌うために教会に来るのでもないのです。

賛美とは神をあがめることです。