世の中には十字架のペンダントをつけている人がいますが、パウロは決して十字架を飾りとはしませんでした。十字架こそ私の救いであり、みんなの救いであるというのです。

当時の十字架刑は極刑です。これほどむごい刑はないのです。そこには恥と侮辱と人々のあざけり,苦しみ,痛み、悲しみ、すべてをキリストが負ってくださったというのです。それも私たちのために、今苦しんでいる人がいますか、キリストの十字架を見上げましょう.今、嘆き悲しみのある人、その人も、キリストの十字架を見上げましょう。キリストはその重荷、苦しみを背負ってくださったのです。

こんな話を聞きました。坂道を重い荷物を背負って上っている人がいました。
通りがかった馬車の人が、その人に言いました。「重そうですね、どうぞ私の馬車に乗ってください。」その人は、礼を言って馬車に乗せてもらいました。しかし、馬車に乗せてもらったのに、まだ苦しそうです。よく見るとその人はまだ荷物を背負ったままだったのです。車夫が言いました。「旅の人、荷物は下ろしていいのです」と。私たちも,どうかするとそういうところが,あるのかもしれません。申し訳ない気の毒だと,あなたはキリストにすべて任せてみませんか。楽になりますよ。

ローマ書6:5(リビングバイブル)
あなたがたはキリスト様の体の一部として、キリスト様が死なれた時、いわば、一緒に死んだのです。そして今は、キリスト様の新しいいのちをいただいており、やがてキリスト様と同じように復活するのです。

次に死について考えてみたいと思います。この問題は避けて通れないものです。どんなにお金持ちでも、そうでない人も、立派な人も名もない人も、この死は訪れるものなのです。この死は避けて通れないものなのです。しかしパウロは、『私はキリスト様と共にすでに十字架上で死んだ』と言っているのです。いま『私は復活されたキリスト様から新しいいのちを頂いており,やがてキリスト様と同じように復活するのです』と言っているのです。ここにキリスト者の勝利があるのです。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです。キリストが私のうちに生きておられるので、キリストと共に復活するのです。

ガラテヤ2:20
私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

パウロはキリスト信仰を持った時から、『私はキリストと共に十字架につけられました』と言っているのです。私たちもキリスト信仰を持った時から、このキリストを、十字架を見上げていきたいものです。キリストの十字架こそ私の罪汚れを一切、負ってくださったのです。 あなたは信じられますか。キリストと共に生きるとはキリストの十字架をいつも意識する者です。

キリストは私たちのために十字架を背負ってくださったのですが、私たちもキリストの十字架を背負っていくものなのです。キリストに従っていくという十字架です。
私たちは日曜日の礼拝は休まないようにしたいものです。
主の祝福が一同の上にありますように。