イエスは言われたのです。「わたしはアブラハムと共にいた神であり、導いた神であり、守った神でもあり、イサクと共にいた神であり、守った神であり、ヤコブと共にいた神であり、守った神である」と、そんな偉大な神が私たちと共におられ、また守り導いて下さっているのです。
ヤコブ2:23
そして,「アブラハムは神を信じ,その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
アブラハムは信仰によって神の友と呼ばれたのです。私たちもキリスト信仰によって神の義であり、キリストの友とされているのです。
ガラテヤ4:27,28
すなわち,こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声を上げて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。
このことばは私たちにとって非常に慰められる言葉です。今は信徒が少ないかもしれないが、いずれ多くの信徒を持つようになると励まされることばです。
ヘブル11:11-12
信仰によって,サラもすでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力をあたえられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海辺の数え切れない砂のように、数多い子孫が生まれたのです。
サラとはアブラハムの妻です。サラは年を過ぎてもう子を宿すことの出来ない身でした。
しかし神に対する信仰によって子供を宿したのです。アブラハムも信仰の人であったと出てきます。私たちもキリスト・イエスを信じることによって教会は祝福されていくのです。またアブラハムは自分の子どもたちを祝福したのです。私たちも自分の子どもたちを祝福しましょう。この祝福は神の祝福です。お互いの祝福の祈りをしたいものです。夫は妻を祝福し、妻は夫を祝福するのです。
マタイ8:⒒
あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
キリストにあるなら、死んで終わりではありません。天の御国で先人たちと共にお会いするのです。
民数記24:17
「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り,イスラエルから一本の杖が起こり」
私達は今現実に見ていなくても聖書は「見つめる」と出てきます。私達も主の祝福を見つめていきましょう。信仰の夢は実現をつかむのです。【ヤコブから一つの星】と出てきます。また、イスラエルから一本の杖と出てきます。これはどちらもイエス・キリストの誕生を表しています。イエス・キリストの働きは、信仰によって夢見る者に現してくださいます。
創世記32:24
ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘をした。
これは祈りの格闘であったのです。